本当に話したいことをちゃんと言葉にできた時っていうのはすごくうれしいし、その本当に自分が話したいことを他人が言葉にしてくれたときっていうのも同じようにとてもうれしい。非常に深い部分での満足感だ。

これを味わうために今まで膨大な時間をおしゃべりしたり文章を読んだりちょっとは書いたりして過ごしてきた。これからもたくさんこの喜びのために多くを投じるだろう。もっとこのような喜びを求めてることに自覚的になり、戦略的になるべきなんじゃないかと思った。

たとえば、良い文章とは時自分に正直な文章であると定義し、良い会話とはお互いに正直に話し、お互いの内面を掘り出していくような会話であると定義してみるとか。

そうすると、当たり障りのない予定調和的な会話なんかは良くない会話ということになる。まあこういう会話にもいいところはあるが、せっかく定義したのでこいつは今は悪だ。

なぜこのように上述の満足感が得られない会話が起こるのか。実感としては、相手がそれについて楽に反応でき、会話が成立しやすそうであることを重視して発言するからだ。相対的に発言内容が自分に正直であるか、それが本当の実感かということの優先順位は下がって良い会話から遠ざかる。相手がうまく反応できなかったり、こっちが結局うまく言葉にできずに会話が成り立たなくて気まずい思いをするのが怖いから。

他には、テンポを考慮して話すからということもある。本当に自分の思ってることを言葉にするには時間もかかる。

あと、これが最もやっかいな理由だが、そもそもじっくり考えるのがしんどかったり話してる相手の内面にそれほど興味が持てなかったりもする。この問題に関してはもっと踏み込まなきゃな。