いまひとつ面白くならない会話というのがどういう傾向をもっているのか考えてみる。

まずは自分が面白いと思える会話の典型的なパターンを考えてみる。

  • 同じ対象に対する意見の相違を見つけて、それぞれの意見がどう違うのか、それぞれの意見はどんな理屈によって成立しているのかを比べる。自分の中には無い考え方に触れたりして楽しむ。
  • 同じ対象に対して同じ意見をもっているようなら、その心情をたがいに描写しあう。自分の考えてることが自分にないボキャブラリーで描写されてしまう楽しさが味わえる。
  • どこまでが同じ意見でどこから意見が分かれるのかというポイントをさぐる。意見が分かれるか分かれないかというあたりのポイントについて話すうちに、お互いの話の磁場にお互いの意見が少しづつ曲がっていくのを楽しむ。

これらの楽しみ方のどれにも、まずは会話の参加者それぞれからだいたい等距離に有るような話の対象が必要になる。等距離にあるとは、だいたい同じぐらいの知識量、造詣の深さがあるということであり、個人的で具体的な話よりも抽象的な話の方が距離感としては正しいポジションにおさまりやすい。ただ、あまりに抽象的だと話のとっかかりがなくて盛り上がらない。だから、距離がだいたい同じぐらいで可能な限り具体的な対象がいい。

その適切な話の対象を探すために、まずは誰かが個人的具体的な話を初めてそこから一般的抽象的な話へと徐々にスライドしていき、知識の不均衡がとれてだいたい等距離になった時点で独白モードから対話モードに切り替わって前述した楽しみを収穫にかかる、という手順をよく取る。

一方、あまりおもしろくならない会話の典型的なパターンというのは、おもしろい話を他の人が聞き入るというような、いわゆるネタ披露という形になるかなと思う。こういうパッケージ化されたおもしろさっていうのは世の中にいくらでも流通してて、プロの作品と同じ目線で評価されてしまうので不利。普通の人の会話の面白さっていうのはもうちょっとライブ的な相互作用の中に求めた方がいいんじゃないかと思う。

よくある食い違いというのが、前述の対話の話題探しのための個人的具体的な話というものが、相手にはネタ披露と受けとられてしまってなかなか対話にならないような状況。相手は自分が口を挟んで相手のネタをじゃましないようにしているだけなんだけど。