数学的思考法―説明力を鍛えるヒント 講談社現代新書

今日本人に求められている重要な力は、試行錯誤し粘り強く考える力と、自分の考えを相手に説明する力の2つである。数学の証明問題はその2つの力がいっぺんに鍛えられるので、数学の重要性は今ますます高まってきているのだ、という本。

おもしろい部分は多々あったが、読み進めているときは物足りなさのようなものも感じた。それはこの本が短いコラム集のようになっていて一つ一つのテーマに割かれた分量が少ないからというのもあるが、それだけではないような。

自分はこの本に「これさえ押さえておけばあなたも数学的思考をマスター!」というような絞り込まれたノウハウを淡く期待していたのが、そういうのは書いてないのだ。それどころか、そんなふうに方法だけを身につける態度こそが数学的でないのだと批判されている。しかし作者が批判する、やりかたマスター至上主義にどっぷり浸かった人間対してこそ魅力を醸し出す言葉なんじゃないのか、タイトルの「思考法」って。ラーメンが食べたくてラーメン屋の看板が出てる店に入ったら、店主に「ラーメンよりこっちのほうがうまいよ」って言われて別のもっとうまい料理を出されたような、満足したようでちょっとやるせない感じ。

気になるのが、筆者はこの本のコラムで社会のいろんなことにを題材にものの考え方を述べているが、それらの筆者の考えを「数学的思考」と言うべきなのかどうかだ。言ってることがおかしいから数学的でないというのではない。いたってまともなことを言っており、そのまともで普通であるがゆえに、わざわざ「数学的」と冠を付けるべきなのか?と思うのだ。

「…が脳を活性化させる」という派手な宣伝文句をしばしば目にする。こうした文言を冷静に見ると、その物質なり行為なりがもっているマイナス面を考慮していないことを仮に度外視したとしても、脳を活性化させると言われる他の物質や行為との比較に関する定量的な記述がないことがほとんどである。たとえば古くから、「よく噛むこと」や「異性との触れ合い」は脳を活性化させる上で大いにプラスであると言われてきたが、それらとの比較がなければ、冷静な判断を下すことはできないのだ。

など。もっともだ。もっともだが、こういう発想をわざわざ数学的だなんて言わなくていいじゃないか。確かに数学はものの考え方、方法論をいろいろ開発した。その恩恵は人間の知の土台となって、King of 学問と言ってもいいような存在だ。だから、「思考法」なんて言葉の冠にならないでほしい。そんな俗っぽい領域でせっかくのKingの威光を下らないことに使わないでくれ。