悪魔のささやき (集英社新書)

悪魔のささやき (集英社新書)

悪魔のささやき (集英社新書)

 
犯罪者や自殺未遂者が動機を問われて「自分でもどうしてあんなことしたのか分からない。悪魔にそそのかされたみたいだ」というようなことを答えることがある。ここで言う悪魔とは一見言い訳のためのただのでっちあげのようだが、多くの犯罪者や死刑囚に実際に会って話を聞いたところどうやら本当に悪魔のささやきとしか言いようのないものは存在するのだ、というのが著者の主張。

悪魔のような人間と天使のような人間の2種類がいるというのは正確ではなく、性善説性悪説も正確ではない。悪魔や天使のささやきのようなものによって内なる悪しきものや良きものが呼び起こされるような存在が人間である。その場限りの欲望の高まりや社会の風潮に大きく人間の行動は左右されるが、悪を為すことを避けるためにもそういうささやき主導な生き方から少しでも脱して自由に自分の頭で考え、自分で選択して生きようと著者は提案する。

で、どうしろというのか。無知であったり人生に対する態度というべき意思があいまいだったりすれば、それだけ行動の判断材料にささやき的なものの比率が高まる。だから興味を広く持ち、勉強して知識を広げ、こんなふうに生きたいという理想を持つべき。学んで自由になる。

興味深かったのは、インターネットでいろいろな情報を手に入れやすくなったということは必ずしも個人が主体的に生きることにとってプラスなわけではないという指摘。情報の検索性とアクセス性が高まることで、個人は自分にとって好ましい情報、自分の感覚を肯定する情報ばかりをピックアップするようになるということ。Webによって国家権力などが人々を洗脳することは難しくなったが、個人が自分を騙すことは容易になった。

もう一つ、プリゾニゼーションという心理学用語。監獄に閉じ込められた人が監獄に適応し、極端に興味の範囲が狭くなったり看守の顔色をこそこそ伺ってばかりいるようになることを指す。これは刑務所の中でだけ起こる現象ではない。世界の在りようを認識し、それに適応するということは程度の差こそあれ誰でもやっている、やるべきことだ。その世界認識が間違っていたり、柔軟性がなかったりすればそれに対する適応の結果もおかしなことになる。