「社会の中の自分」という視点がなければ世の中に翻弄されてしまうと昨日書いたのだが、翻弄されるってのはちょっと違ったかも。ダルイウザイキモイの感情の中から逃れられなくなってしまうっていうほうが近そう。世の中は特定の個人を気持ちよくさせるためには回っていない。その中で個人がなにも外に働きかけることなくただ快楽を願ってても、そりゃあ生きるための仕事はダルイし社会のルールはウザイし自分と違った他人はキモイと感じるだろう。ナマの世の中は別に素晴らしいものではない。

自分は特別な人間ではない。幸せであるべき存在なんかでもない。同じような人間がたくさん世の中にいて、それぞれがいろいろ働きかけていろんなことをやろうとしている。あくまで自分はその中の特別でない一人で、大方の人にとっては取るに足らない存在である、という認識が「社会の中の自分」ということなんじゃないだろうか。

ダルイってのは「本当はこんなことしなくても、なんとかなってよさそうなもんなのに」というような感情を含む。その「本当なら」がただの自分勝手なユートピアなら、それは認識を改めることでダルさごと削れる。ルールのウザさも、特に自分に配慮されているわけでもないことを認め、粛々と「どういうつもりでこんなことになってるのか」を理解することができればきっと楽になる。キモイのだって相手が何を考えてるのか理解できれば、ちょっとはましになるだろう。

自分の外側、社会について学ぶべきことがある。やっぱ学ばないと楽しくなれない。