祖母が亡くなった通夜の夜に、父親と話をした。普段父親とは顔を合わせないせいか、父親としていろいろ話しておきたかったことがあったようで、いろいろな話をしてくれた。父と母の結婚式の直前に突然父の会社が倒産して、参列者が無職だらけの結婚式になったこととか。だから結婚する前にあれこれ計画立てたり準備をきっちり整えたりしてもそれでうまくいくとは限らないんだし、あんまりそういうのに縛られてチャンスを逃すなよ、とか。

父が大事なことを話そうとすれば話そうとするほど、話は抽象的になっていき、過去世がどうとかエルカンターレがどうとか9次元宇宙がどうとかそういう話になっていく。こんなふうに幸福の科学の話を聞くのは昔はすごく嫌で、そのせいで父親が嫌いでもあった。でも今回またこんな話を聞いてみて、以前のような嫌な気分はほとんどなくなっていた。決して魂が手のひらのような形をしているとかそういう理論に納得したというわけではなく。

まずニヒリズムの立派な銅像を建てて、それを金属バットで粉々に粉砕するのがパンクロックだ、とある人は言った。その行程の重要さは実感しているがパンクロックを歌う習慣がない私は、その行程を成熟と呼びたい。そう呼んで、自分の中に納めたい。父の宗教的な話に大きな反発を覚えていた頃の自分はニヒリズム銅像の建設途中であり、ウソのような話で自分を納得させている父は軽蔑の対象だった。それは怠惰だと思った。

しかし時間がたって自分は今、きっちり丁寧に築き上げたニヒリズム銅像をぶっ壊す段階にいる。父の知的立脚点がどうなっていようと、そこから活力を汲み出し、仕事をし、社会の役に立ち、我々家族を愛してくれている父に敬意は覚えても否定などできようはずがない。毎晩お前たち子供らの守護霊に感謝の言葉を念じている、と言ってくれるのなら、それは愛情であり愛情を表す行動であると受け取っていいじゃないか。父の言う守護霊に当たるものを私は言葉として持っていないが、きっと父のその感謝の言葉を念じる時の感情と私が愛情と呼ぶ感情はそう変わらない。それで十分じゃないかと思う。