たけくまメモで引用されてた、さいとうたかをさんの才能と努力の話が興味深い。

竹熊「才能があっても消えてしまった人って、すごく多いでしょう」
さいとう「多いです。よく言うんですけれど、この仕事に必要な条件で、才能なんてのは全体を十としたら二ぐらいのもの。三が努力、五は運ですね。絵が描けるというのは、野球選手がボール投げられますというのと同じことであって、出発点にすぎない。あとは努力と運だということを、よく言うんです」
竹熊「その場合の努力とは何でしょうか」
さいとう「どうやれば自分を一番生かせるかを見きわめることです。それには、自分の能力を冷静に見なければ。ところがこの世界に入って私が一番驚いたことは、みんな自分を天才だと思っていることでした。でもね、たとえ才能があったとしても、それだけではダメなんですよ」 
(「追跡者〜幻のマンガ家・韮沢早を追え!」月刊IKKI/2001年5月号/小学館 より)

独学に勝る勉強はない(1): たけくまメモ

努力を「どうやれば自分を一番生かせるかを見きわめること」とするかぁ。それって極端に受け取れば、やりたいことではなく世の中に高く買ってもらえることを為す、ということだろうか。それはよく聞くような、好きなことを貫き通せばいつか花開いて成功する、というような話と逆だな。

さあどっちが正しいんだとか考えたくなるけど、本当に考えるべきことはどっちが正しいかではなくて「やりたいこと」と「求められていること」をそれぞれの状況でどう使い分けて自分の幸福を最大化すればいいか、ということなんだろうな。今やりたいことだけをやろうとすれば「家でずっと寝ていたい」とかになってすぐに生活できなくなるし、今一番求められてることをやろうとすれば、全財産寄付してドナーカード書いて死ぬべきなのかもしれない。

で、どっちが正しいかではなくさじ加減の話だとしたところでも、努力とは自分のマーケティングだ、求められていることの側に舵を切ることだ、というような話は成立しそうだ。ほっとけば人間は欲望という重力に引き寄せられて生きるんだから、コントロールするには双方向の力でなく揚力ひとつで十分、ということ。実際、一日寝てることはできても全財産寄付はできないしな。

後は、求められてることを自分自身も求めるように己を教育して、対立しがちな2つのベクトルを1つにまとめるというアプローチもあるな。やりたいことをやれ派は、これを前提にしてるっぽい。