ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)

理念なり事業なり一つのことに捧げてこそ人生は価値があるという考え方はよくわかるし、それを賛美するお話も数多くある。しかし自分のふところ具合や他人の都合や社会の変化なんかによってあっちへ向かったりこっちへ向かったり、その度に今までのことをご破算にして生きていくことだって悪くない。そういう感覚って、こんなふうに人間の一生を追って書くような時間スケールでの小説でしか表現しづらいことなのかもしれない。短い期間を切り取ってみればはっきりした目的を持ってそれにアプローチしている方がやっぱり魅力的だと思うから。

主人公が辛い修行の上を経て空を飛べるようになるのだが、その空を飛べるというスキルがかなり地味に書かれていて、ゲド戦記の中で魔法が地味に扱われているのと近いものを感じる。それらは人生の問題を一掃しない。空を飛べても魔法が使えてもまだまだ悩むべきことや苦しむべきことはある。しかし、それらの道の追求にこそが世の中に自分の居場所を確保し、誇りを与えてくれる。そんな存在。要するに、技術一般のことだな。いかなる秘術といえど、この範囲から出るものを書いたらそれは実際の人生を書こうとする上でリアリティを損なってしまうだろう。

ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)

ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)